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東京地方裁判所 平成2年(刑わ)1322号 判決 1992年3月02日

主文

被告人を懲役六月に処する。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、平成二年四月一八日午後一時一五分ころから同日午後二時ころまでの間、左表記載のとおり、東京都中央区銀座<番地略>の株式会社松屋銀座本店五階マダム・ジョコンダ売場ほか三か所の売場において、同店店長萩原哲明の管理にかかるブラウスほか五点(価格合計四二万八四〇〇円相当)を窃取したものである。

番号

犯行場所

窃取品

品名

数量

金額

松屋銀座本店五階

マダ ム・ジョコンダ売場

ブラウス

一着

三万四〇〇〇円

同店五階呉服売場

訪問着

一着

三八万円

同店六階女児服売場

子供用トレ ーナー

二着

一万二〇〇〇円

同店六階男児服売場

子供用靴下

二足

二四〇〇円

なお、被告人は右各犯行当時てんかん性もうろう状態にあったため、その影響により心神耗弱の状態にあったものである。

(証拠の標目)<省略>

(争点に対する判断)

一  本件の争点と当事者の主張

被告人が判示日時・場所において判示の各窃盗行為を行ったことは関係証拠上明白であり、この点は当事者間にも争いがない。本件の争点は、右各犯行当時、被告人に完全な責任能力が備っていたか否かにある。

この点に関し、弁護人は次のように主張する。すなわち、被告人は、本件各犯行当時てんかんに基づくもうろう状態の下にあったものであり、加えて、被告人は衝動仰止力の弱い軽度精神薄弱者であること、母親がてんかん性精神病のため、被告人は幼児家庭での教育を受けることがなく、小学校にもほとんど行っていないので、同程度の精神薄弱者より物事の判断力がかなり劣っていると思われることなどをも併せ考えると、被告人は各犯行当時是非弁識能力及びこれに従って行動する能力が通常人より著しく劣っていたことは明らかであり、心神耗弱の状態にあったものというべきである。

これに対し、検察官は、各犯行当時の被告人の行動には何らかの意識障害を疑わせるような状況は全く認められず、いずれも合理的なものである上、本件当時の異常な精神状態を語る被告人の捜査・公判等での供述は虚偽の疑いが強いから、結局、本件当時被告人が異常な精神状態の下にあったとは認められず、完全責任能力を優に肯認することができる旨主張する。

当裁判所は、右のような両当事者の主張に鑑み証拠関係を子細に検討した結果、被告人は本件当時心神耗弱の状態にあったとの合理的な疑いを否定することができないものと認定・判断するに到ったので、以下その理由を述べる。

二  本件犯行に至る経緯と犯行状況に関する客観的事実・被告人の供述

1  客観的事実関係

まず、前掲の関係各証拠によって、本件犯行に至る経緯・犯行状況について見るに、以下の各事実は当事者間で概ね争いがないか、又は客観的証拠による裏付けを有するものである。

(1) 被告人は、本件当日の午前一〇時一〇分ころ、家政婦をしている自宅近くの甲氏宅に赴き、同宅の家事を処理して昼食をとった後、渋谷区恵比寿のクリーニング店に甲方のワイシャツを取りに行くため、同日午後一二時三〇分ごろ、ワイシャツを入れるための紙袋を持って甲方を出た。その後、被告人は、地下鉄日比谷線広尾駅に徒歩で赴いて、同駅から恵比寿駅に向かおうとしたが、誤って銀座方面行きホームに下りてしまったため、一旦は恵比寿方面行きホームに移動しようとしたものの、ふと娘の靴下を買う用事を思い出し、このまま銀座の百貨店に一時間ほど寄り道して買物をしようと、銀座方面行き電車に乗り、同日午後零時五〇分ころ銀座駅に到着した。

(2) その後、被告人は、判示松屋銀座本店に着くと、エスカレーターで五階に行き、同日午後一時一五分ころから同日午後二時ころまでの間に、判示一覧表に記載の順に、同店の五階と六階で、相次いでブラウス・訪問着・子供用トレーナー・子供用靴下を万引きして、その都度手に下げていた前記紙袋に各窃取物品を収めた。

(3) そして、最後の万引き(前記一覧表四)が終わり前記靴下を紙袋に収めるや否や、被告人は小走りに六階のエレベーターの方に向かい、その後方向を換えて同階上りエスカレーターの上り口付近に至ったが、その時、被告人の挙動に不審を感じて予め同人を警戒していた同店保安係員の前原睦雄に「お客様、靴下はどうされましたか。」などと声をかけられ紙袋の中を改められたため、直ちに「申し訳ありません。勘弁して下さい。勘弁して下さい。」と謝罪した。

2  被告人の供述

そこで次に、以上のような客観的事実関係、特に前記(2)(3)事実当時の被告人の心理状態につき、被告人自身の供述状況(捜査・公判での供述のみならず、後記仙波医師の受診時の供述や後記風祭教授の鑑定の際等の供述を含む。)を見ると、その顕著な特徴として、次の二点を指摘することができる。

(1) その供述内容は、各場面場面でその具体性にむらがあり、殊に各窃取現場間の移動状況や移動の目的等に関しては具体性のある供述がほとんどなされておらず、また同じ窃取場面でも、供述の時期が遅くなるほど内容に具体性が乏しくなっていく傾向が窺われ、更に細かな点で前後一貫しない部分があるなどの問題点があるものの、次のような供述の核心部分は、捜査・公判、あるいは後記仙波医師の診察や後記風祭教授の鑑定等の各段階を通じ、その供述の趣旨において概ね一貫したものがある(以下、これを「被告人の異常心理供述」という。)

「松屋のエスカレーターに乗って上に上がって行くと、五階あたりで白いピアノが置いてあったので、見てみようという気持ちになり、五階で降りた。ピアノの近くにブラウス売場があった。その売場でブラウスを手に取って見ているうちに、頭の中がボーとなって真っ白になり、手に下げていた紙袋の中に自然とブラウスを入れていた。その後、五階や六階で、他にも着物やトレーナー、靴下を紙袋に入れたが、やはり同じような気持ちだった。最後の靴下を紙袋に入れるころ、誰かに見られているような感じがしたので、はっとして怖くなり、小走りに逃げたが、途中で捕まってしまった。

(2) また、各窃取行為の態様に関する供述を見ると、窃取に先立ち四囲の状況特に店員の有無や動静に注意を払ってその目を避けようとするなどの、当然なされるべき顧慮についての供述が全くなされておらず、窃取する商品につき、靴下を除けば、他と比較して選択するとかその値段や必要性を考慮したなどの供述も存しないのであり、その余は、(1)に要約したとおりの内容のものである。窃取行為の後次の窃取行為に至る経緯に関する供述を見ても、具体性に甚だ乏しいものであるだけでなく、その内容は、窃取直後でありながら、店員らの動静に意を用いることなく漫然と付近の売場を見て歩き、次々と窃取を重ねたなどというものである。被告人は、本件犯行により現行犯逮捕され、その直後から警察官の取調べをうけているのであるところ、右の諸点は一般に、捜査官により詳細な取調べがなされるはずの事項であるから、それにもかかわらず、被告人の供述が右のような内容のものに止まっているということは、本件各窃取時及びその前後の被告人の行動が、発覚・逮捕を免れるために通常なされる周囲の状況への顧慮に著しく欠けた、無防備かつ衝動的なものであったことを窺わせるものであるとともに、被告人の記憶が犯行直後からすでに、部分的で不完全なものであったことを示すものということができる。

3  小括

本件犯行に至る経緯及び犯行状況に関する外形的事実に関しては、1のとおりであって、全体として一応の合理性が認められ、殊に保安係員から呼び止められた際被告人が直ちに謝罪していることからして、また本件がそれ自体単純な万引きの事案であることも考慮すれば、本件犯行当時被告人が、是非弁識能力や行動統御能力を全く欠いている状態になかったことは明らかである。

しかし、一方、本件犯行当時の心理を語る被告人の異常心理供述には2(1)のとおり一貫したものがあり、仮にそれが真実であるとすると、被告人の供述につき指摘した2(2)の特徴点と合わせて、本件当時被告人の是非弁識能力や行動統御能力はかなりの程度損なわれていたことが推認されるから、2(1)の異常心理供述の信用性や2(2)の供述の特徴点の持つ精神医学上の意味、さらには、それらが是非弁識能力や行動統御能力に及ぼす影響の程度については、被告人の生い立ち・遺伝的負因から本件犯行後の被告人の行動に至るまで被告人の精神異常の存否に関する情況証拠を総合的に考慮し、更に鑑定人等の精神医学の専門家の意見をも参酌して、慎重にこれを決しなければならない。

三  被告人の精神異常の存否に関する客観的情況証拠

そこで、進んで、被告人の精神異常の存否に関する客観的情況証拠、殊に被告人の成育歴・生活歴や遺伝的負因、その窃盗に関する前科関係や余罪事実、被告人の精神科の受診経過、本件犯行後の行動等につき検討するに、前掲の関係各証拠によれば、以下の各事実を認めることができる(以下の判断において「情況証拠1」というような方法で引用することがある。)

1  被告人の中学卒業に至るまでの成育歴・遺伝的負因

被告人は、昭和二二年九月群馬県邑楽群西谷田村で出生し、その後間もなく実父が一方的に実母と離婚して出奔したため、姉とともに千葉県松戸市内のアパートに住む実母の許で暮らすこととなった。しかし、線路工事の日雇いの仕事をしていた実母が、そのころからしばしばてんかん大発作を起こし、精神病様の状態になって精神病院に入院したり時折行方不明になったりして、子供の世話もできない状態にあったことから、被告人は姉とともに養護施設と家庭とを往復する悲惨な毎日を送り、小学校にもほとんど登校しない状態であった。

小学校三年生の終わりころ再び実母が行方不明になったため、被告人ら姉妹は母方の実家に引き取られ、以後、地元の小学校、中学校に通いながら成育したが、肩見の狭い毎日であって、学力不足のため学校の勉強にも全く付いて行けない状態であった。この間、実母は、実家に戻って被告人姉妹と一緒に生活することもあったものの、やはりてんかん大発作を起こしたり精神錯乱の状態になったりして度々精神病院に入退院を繰り返していたが、次第に痴呆が加わって晩年は廃人同様になり、昭和六〇年ころ咽頭癌で死亡した(なお、被告人の実兄は二五歳時に縊首自殺している。)。

2  中学卒業後今日に至るまでの被告人の職歴・生活歴・家庭環境等

昭和三八年三月に中学を卒業して上京した被告人は、以後結婚するまでの約一五年間は住み込みの家政婦等として働いていたが、この間は比較的平穏で自由気儘な生活を送っていた。

昭和五一年(二九歳時)、被告人は、知人の紹介で知り合った現在の夫乙と結婚した。結婚生活においては、夫の両親との間で不和を来したり、また後に述べる被告人自身の度重なる万引きの犯行によりしばしば警察に検挙されて裁判を受け服役したこともあったものの、その家庭生活自体は、昭和五二年九月に双子の女児が生まれ、港区白金に土地付き家屋があり、更に夫の収入と通いのパート家政婦をしている被告人自身の収入により比較的裕福であるなど、概ね恵まれたものであって、本件各犯行当時も、被告人は、自らパート家政婦という職を持つ一方、印刷会社で営業の仕事を担当している夫と健康な中学生一年生の女子二人のいる平凡な家庭の一主婦として、特に盗みの犯行に及ばねばならないような逼迫した経済的事情もなく、また家庭生活その他において深刻な苦悩・葛藤があったわけでもなかった。

3  被告人の万引き前科等

ところが、右に述べたような比較的裕福な家庭生活にもかかわらず、被告人はこれまで多数回にわたって万引きの犯行を重ねている。本件犯行に至るまで及びその後の万引きとそれに対する処罰等の状況は、次のようなものである。

(1) 被告人は、①昭和五三年八月六日午後三時ころ、約三〇分間に、百貨店等三店舗からセーター・ベスト・シーツ等一四点を万引きし、②翌昭和五四年四月二七日午前一一時頃、スーパーマーケットから食品等一二点を万引きし、③同年九月二四日午後一時四〇分ないし同日午後三時ころ、原宿近辺の八店舗からブラウス・スカート・セーター・カセットテープ・ぬいぐるみ等三一点を万引きした罪により、昭和五五年二月八日渋谷簡易裁判所で懲役一年(三年間執行猶予)に処せられた。

(2) その刑の執行猶予期間中である昭和五七年七月二五日の午後三時二五分から同日午後四時五〇分ころまでの間に、被告人は、またも百貨店等四店舗からセーター・スカート・オルゴール等一七点を万引きした罪により、同年一〇月一二日東京簡易裁判所で懲役一年(四年間執行猶予・保護観察付)に処せられた。

(3) (2)の執行猶予期間中(なお昭和六〇年五月一五日保護観察仮解除の効力が発生)である昭和六一年一月一九日、被告人は、同じく百貨店からセーター等二四点を万引きした罪により、同年三月三一日新宿簡易裁判所で、懲役一年(四年間執行猶予・保護観察付)に処せられた。

(4) (3)の刑の執行猶予期間中である昭和六二年一一月二九日、更に、被告人は、百貨店からコート・ブローチ・靴・セーターの四点を万引きした罪により、昭和六二年一二月二三日新宿簡易裁判所で、懲役八月に処せられ、(3)の刑の執行猶予も取り消されて、昭和六三年一月七日から平成元年二月一六日仮出獄するまでの間約一年二か月間服役した(平成元年八月二日刑執行終了)。

(5) ところが、被告人は、同じ平成元年一一月ころ、またも近所のスーパーマーケットから食料品を万引きしたが、これは後日起訴猶予処分となった。

(6) その後、被告人は、平成二年四月一八日には再び本件各万引きの犯行に及んで同年五月八日起訴され、その三日後に保釈されたが、本事件の第一回公判期日である同年六月一三日の二日前である同月一一日には、またも被告人は、約一時間半の間に渋谷の百貨店二店舗から衣類や魚等を万引きして逮捕されるに至った。

以上見たような被告人の各犯行を通覧すると、その手口はいずれも百貨店やスーパーマーケット等の人の出入りの多い店舗での万引きであり、各犯行は短時間のうちに集中的に生活用品が多い。しかも、いずれの犯行も、前刑の執行猶予期間中や出所後の一定期間を避けようとしたり、あるいは本件裁判への影響を避けようとして時期を選んだ形跡が全くなく、また、とくに露見しないように配慮したような形跡も窺うことができず、各犯行には偶発的で場当たり的な性格あるいは無防備で衝動的な傾向が色濃く窺われる。

4  精神科の受診経過等

ところで、被告人は、前記3の(5)の万引きにより精神病の可能性を疑った清水徹弁護士(本件弁護人の一人)の紹介により平成元年一二月一九日には千葉セントラル神経クリニックの仙波恒雄医師(医療法人同和会千葉病院院長)のもとを訪れて受診し、以後今日に至るまで継続的に同医師の診療を受け続けている。

この間、被告人は、仙波医師に対し、初診時(平成元年一二月一九日)に「(万引きの時には)自分では頭の中が真っ白くなってしまい、欲しいものでもないものを手に持っていていつのまにか入れてしまっている」「店を出る時にはまたやっちゃったという感じでこわい」「事務所で調べられて、私はそこで初めて訳のわからないものを盗ったのだろうかと思う」などと語ったのを初めとして、以後本件犯行の前後を通じ一貫して、万引き時には「頭の中が真っ白くなってしまう」旨の症状を語り続けている(同医師作成のカルテの写し〔及びその清書文〕による。)

これに対し、仙波医師は、当初は、万引きは月経前に多いとの被告人の訴えや、脳波検査には異常所見がないこと、心理検査の結果被告人は軽度精神遅滞であることが判明したことなどから、被告人は月経前緊張症侯群に罹患しているとの鑑別診断を行っていたが、その後、治療続行中の四月一八日に被告人が再び本件万引きの犯行に及んだことから、次第に被告人の異常心理供述の持つ精神医学上の意味を再考し、更には被告人の遺伝的負因(実母がてんかんの大発作を頻発)をも考慮して、万引き時のてんかん性意識障害を疑うようになり、同年五月一五日からは、それまで被告人に対し投与していた抗不安薬(マイナートランキライザー)に加えて、抗てんかん剤であるバレリンを投与するようになった。そして、被告人はそれまでの受診時にも、仙波医師との会話の最中に突然話を中断してふっと意識が途切れるような様子、てんかんの欠神発作(小発作)に類似したような態度を時折示していたところ、同年一〇月二六日には、診察終了後待合室において、仙波医師が被告人に声をかけたところ、被告人は顕著な失見当識と意識障害を伴うもうろう状態に陥る発作を起こしたことから、仙波医師は、三回の脳波検査によっても被告人には脳波の異常は認められなかったものの、前述のようなもうろう状態、欠神発作(小発作)類似の症状等の臨床症状に加え、被告人にはてんかんの遺伝的負因があること、被告人の供述によれば自律神経発作と認められる発作も起こっていること、軽度の精神遅滞の状態にあることなどを根拠として、被告人はてんかんに罹患しているとの確定診断を下すに至った。

四  被告人の犯行当時の精神状態に関する医師の見解

他方、精神医学の専門家である仙波恒雄医師、市川達郎医師、風祭元教授は、前記二、三に認定した各事実を踏まえて、被告人の犯行当時の精神状態に関し、それぞれ次のように述べている。

1  仙波恒雄医師の証言(同医師に対する当裁判所の尋問調書、同医師の当公判廷における供述、同医師作成のカルテの写し〔及びその清書文含む。〕。以下、これらを総じて「仙波証言」という。

仙波医師は、前記客観的情況証拠4で認定したように、平成元年一二月一九日以降今日に至るまで継続的に被告人に対し診療を行っているものであるところ、前述のとおりその鑑別診断の内容は若干の変遷があるものの、今日では被告人はてんかんに罹患しているとの確定診断を下し、これを前提に本件各犯行当時の被告人の精神状態について、大要次のように証言している。

すなわち、被告人は、もともと軽度の精神遅滞者であり、衝動のコントロールが非常に悪いという性格の偏りを有しているものであるところ、本件当日は地下鉄のホームを間違えた時点からすでに軽い意識障害を来たしており、その後松屋デパートの人込みの中を歩くうち次第に意識障害が深まるに至り、また並んでいるブラウス等を見ているうちてんかん発作が誘発されたとも考えられ、こうして意識の狭窄が継続し意識全体が曇ってくるような状態に陥った。右は、てんかん性のもうろう状態であり、一連の持続したものであるが、被告人は、右持続したもうろう状態のもとで次々と各窃取行為を行い、最後に靴下を窃取するころにはもうろう状態が急速に回復した結果、保安係員の視線を感じて逃走したものと考えられる。この持続したもうろう状態は各場面によって意識障害の程度に差があり、それに伴ってこの間の記憶も縞のように濃淡をもった状態で保持されているため、被告人の記憶内容の具体性も各場面によって異なっている。また、被告人の各窃取行為は、周囲の状況への顧慮を著しく欠いた甚だしく無防備なものであるが、それも、もうろう状態のもとで意識が挟窄していた結果とみるのが合理的である。総じて、被告人は、本件犯行当時、もうろう状態のもとで、意識障害により精神視野が挟窄された状態にあり、是非を判断したり行為を制御することは恐らく無理であり、その意味において、それらの能力のかなり減弱した状態にあった。被告人が万引き時に「頭の中が、真っ白になった」と言っている点については、各万引き行為の一回毎に、「頭の中が真っ白になる」という発作がそれぞれ一回ずつ誘発されたという意味にとらえるのではなく、一連の万引き行為の当時、持続するもうろう状態のもとで意識の挟窄が継続し意識全体が曇ってくるような状態が生じていたことを表現しているものと見るならば、精神医学的に十分に理解できる。

2  市川達郎医師の診断結果(同医師作成の精神衛生診断書。以下、「市川診断」という。)

市川達郎医師は、本件起訴後の平成二年一二月六日、検察官の依頼により被告人と面接していわゆる簡易鑑定を行った結果、次のような診断を下している。

すなわち、被告人の肉親にはてんかん患者が二人いるらしいこと、簡易鑑定当日の診察中、意識変容発作が三〜四分間認められたこと、被告人は、結婚後時々右のような発作のあったことを自認していることを総合すると、被告人にはてんかんの疑いがあり、犯行当時も、以前からの万引癖に加え、てんかん性意識変容を併発した疑いがある。

3  風祭元教授の鑑定結果(同教授作成の鑑定書、同医師の当公判廷における供述。以下、これらを総じて「風祭鑑定」という。)

帝京大学医学部風祭元教授は、当裁判所の鑑定決定に基づき、本件犯行当時の被告人の精神状態・責任能力について鑑定を実施した結果、次のような鑑定の結論を導いている。

すなわち、被告人は、未熟・情動不安定・衝動性の弱さ・自己顕示性などを主徴とする性格の偏りを有する軽度精神薄弱者であり、かつ、「意識障害のみを伴う複雑部分発作」を示すてんかんに罹患している可能性が大きいと診断される。しかし、医師の診断を受けるようになったのは平成元年の犯行後のことであるから、この発作が、詐病あるいは心因性のものである可能性を完全には否定できない。

また、被告人の犯行とてんかん発作との関係については慎重に検討する必要がある。①本件各犯行は数十分にわたって行われているところこれは発作の持続時間としては長時間に過ぎること、②被告人は犯行の状況をおよそ想起して述べることができること、などの事情に鑑みると、被告人の本件犯行のきっかけになった異常行動、たとえば地下鉄の乗り違い、第一回物品の窃取などの時点で発作による放心状態にあった可能性はあるように思われるものの、被告人の本件各犯行の全期間にわたって、その行動がてんかん性意識障害のもとに行われたとは考えられない。そうすると、本件犯行の経過のある時点で、前述のような被告人の知能、性格、てんかんにより影響を受けて軽度に是非弁識能力及び行動統御能力が減弱していた可能性があるが、それは未だ心神耗弱の程度にまでは達していなかったものと考えられる。

五  本件犯行当時の被告人の責任能力

そこで、以上の見たような事実関係や医家の見解等を踏まえて、本件犯行当時の被告人の責任能力について検討を加える。

1 被告人の異常心理供述の信用性

本件においては、前記被告人の異常心理供述自体についてその信用性が争われており、かつ、その信用性の如何が本件当時の被告人の責任能力を判断する上で決定的な重要性を持つと考えられるので、まずこの点から検討する。

この点に関し、検察官は、①その供述内容は捜査・公判を通じて転々としていること、他の客観的証拠から被告人が本件犯行前から松屋デパートに何回も訪れて万引きを疑わせる行動に出たことが明らかなのにこれを否定していることなどに照らし、被告人は意識的もしくは無意識的に自己の都合のいいように作話・誇張して供述している疑いが濃厚である、②被告人は、本件犯行を生理のせいにするような弁解を行うなど、自己の罪責を免れようとする供述態度が見られる、旨を主張してその供述の信用性を争っている。

なるほど、検察官の右主張にあるように、被告人は累犯前科を有し、本件で有罪になると実刑を免れ得ない状況にあるだけに、本件犯行前から、精神科に通院しその診療を受けていた被告人としては、一般的な可能性の問題として、自己の罪責を免れ、又は少しでも軽減しようとして、犯行時の心理状態を偽って異常を装うこともないとは言えず、殊に、本件においては、犯行前から被告人が度々犯行現場である六階の子供用品売場を訪れ、万引きを行った形跡がある旨の同売場担当者のかなり客観性を有する供述(久保田満之の司法警察員面前調書及びその供述内容を裏付ける前原睦雄の司法警察員面前調書)に対し、被告人が捜査段階においても公判段階においてもこれを頑強に否認し(特に、第一〇回公判における被告人質問においては、両者の供述の食い違いを指摘した検察官の質問に対し、被告人は、「行っていないものは、行ってないのです。」と言いながら、異常に興奮し、机を叩いて泣き叫んだ。)、両者の供述が鋭く対立しているだけに、なお前述のような詐病の疑いを完全に払拭することはできず、風祭鑑定が、被告人において風祭鑑定人、仙波医師、市川医師らそれぞれの面前で示した欠神発作(小発作)による短時間の意識喪失とも受け取れる被告人の態度につき、一定の限度で詐病の可能性を留保しているのも、それなりに理由のあることではある。

しかし翻って、被告人の異常心理供述の信用性を裏付けるに足る諸事情を見ると、次のような事情を指摘することができる。

(1) 万引き時に「頭の中が真っ白になる」との被告人の訴えは、本件犯行後その犯行に対する弁解として初めて登場したものではなく、前記情況証拠4に認定のとおり、本件犯行前に仙波医師の診療を受けていた際、殊に平成元年一二月一九日の初診時から本件犯行の前後を通じ一貫して被告人の供述するところであり、この点は本件の捜査・公判においてもほぼ同様であって、その意味から、被告人の異常心理供述には訴訟上の利害関係には必ずしも左右されない一貫性が窺われる。

(2) 本件万引きの態様・窃取物品等は、本件前後の各万引きとほぼ共通した特質を有するものであるところ、情況証拠3において認定・判断したとおり、各犯行はいずれも短時間のうちに集中的に行われ、露見しないように配慮したような形跡も窺うことができず、各犯行には偶発的で場当たり的な性格あるいは無防備で衝動的な傾向が濃厚である上、いずれの犯行も、当然思いを致してしかるべき自己の置かれた重要な客観的状況を顧慮することなく行われている(例えば、情況証拠3の(2)(3)の万引きはいずれも前刑の執行猶予期間中の犯行であり、(4)の万引きは前刑の保護観察付執行猶予期間中の犯行であり、(5)の万引きは前刑出所後わずか約一〇か月後の犯行であり、本件の万引きは、(5)の万引きの約半年後であって前刑出所後約一年二か月後の犯行であり、更に、(6)の万引きは、本件第一回公判期日を二日後に控えた時期〔前刑出所後約一年四か月後〕の犯行である。)ことなどの諸事情に鑑みると、反面、右各犯行の一部は生理前あるいは生理中の精神的に苛立った時期になされていること、被告人は衝動の抑制力の弱い軽度精神遅滞者であること(最も、仙波証言及び風祭鑑定によれば、右の軽度精神遅滞は、抽象的思考の面で窺われることであり、日常の生活能力に関してはさほど通常人に劣るものではなく、また、自己の置かれた前記のような客観的状況についても十分理解しうるだけの能力は有していたことが認められる。)などの諸点を考慮に入れても、本件を含む一連の万引き事件は、比較的裕福であって夫にも子供にも恵まれた家庭の平凡な一主婦が犯したものとしては、単に手癖が悪いというだけでは説明がつきかねるような不自然さが多々窺われ、少なくとも平成元年一一月以降の各万引き(前記(5)以降の万引き)行為は、何らかの異常な精神状態の下で行われたものと理解して初めて納得しうるものがあり、そうだとすると、被告人の異常心理供述は決して唐突なものではなく、右に述べた諸事情からも十分了解可能なものであると認めることができる。

(3) 平成元年一二月以降今日まで継続的に被告人の診療を担当して来た前記仙波医師は、長い診療経過と被告人との人間的接触あるいは医師として医学的・客観的な被告人に対する観察等に照らして、被告人の異常心理供述は詐病によるものではなく真摯なものであるとの判断を下している(この点は、鑑定期間や鑑定人としての立場上の制約等もあって被告人と十分な信頼関係を築くことができず、本件各犯行当時の被告人の心理等に関する被告人からの事情聴取が大変不十分であったと述懐している風祭鑑定人が、被告人の詐病の可能性を留保していることと対照的である。)。

(4) 万引き時に「頭の中が真っ白になる」との被告人の異常心理供述に関しては、仙波医師が前記四の1のとおり、万引き時に持続的なてんかん性もうろう状態が生じていたことの表現とすれば、精神医学的に十分理解可能なものである旨証言しているところ、風祭鑑定人も当公判廷において、「もうろう状態ないし何か放心状態みたいになったのを、そういうふうに表現するんだろうというふうに推察致します。」と証言しており、被告人の右供述がてんかん性もうろう状態の表現として理解しうることを、あえて否定していない。

(5) なお、被告人の捜査・公判での供述には前記二の2(1)前段で述べたような若干の問題点が認められるが、仙波証言の指摘するとおり、これとても、犯行当時被告人が意識障害の状態にあったとするならば、その記憶の保持に困難を来す(記憶障害を残す)ことはむしろ当然のことと解しうるのであり、右被告人供述の問題点は、必ずしも被告人の異常心理供述が詐病であることの根拠にはならない。

以上述べた(1)ないし(5)の諸事情を総合すると、「被告人の異常心理供述にはその信用性を裏付けるに足る相当の事情が存しているというべきであり、検察官指摘の諸事情を十分考慮に入れても、これが詐病の訴えであると断ずることはできないものと言わなければならない」。

2 被告人の責任能力

「そこで、右のような被告人の異常心理供述に対する評価を前提に、前記仙波証言・市川診断・風祭鑑定を参酌して、被告人の本件犯行当時の責任能力につき検討を加える。」

(1) まず、被告人がてんかんに罹患していることは仙波証言・風祭鑑定の一致して認めるところであり(市川診断も、わずか一日の診察によるものではあるが、「てんかんの疑い」があるとする。)、この点は、前記情況証拠1に認定した被告人の成育歴・遺伝的負因、同4に認定した精神科の受診経過、その他被告人が各医師の面前で示したてんかんの臨床症状等に照らし、十分首肯することができる。

なお、被告人に対し、仙波医師・風祭鑑定人の下で実施された合計四回の脳波検査によっては、被告人に明らかな脳波異常は認められなかったという事情もあるが、仙波証言・風祭鑑定によれば、てんかん患者においても脳波異常が認められないケースは必ずしも稀ではなく、殊に年齢が高くなるほどその傾向は顕著であることが認められるから、右の点は、被告人がてんかん者であるとの前記認定を左右するものではない。

また、仙波医師は、被告人には、てんかんの症状として、意識障害を示す複雑部分発作(意識障害があり、それに伴って、多少ともまとまっているような、その場であたかも適応しているような異常行動が付随する発作)、欠神発作(小発作―話中に数秒から一〇数秒途切れ、相手の言っていることが分からなくなったりするような発作)、自律神経症状を示す単純部分発作(意識障害がなく、発汗などする発作)の三つ発作が、単発であるいは複合して生じている旨、一般にてんかん性もうろう状態は、意識挟窄等の意識障害、失見当識、全面的もしくは部分的な健忘の三つを伴うものであり、かつ、数時間から数日にも及ぶことのあるものである旨、被告人にも、右の三つを伴うてんかん性もうろう状態が見られ、複雑部分発作ないし欠神発作が右もうろう状態につながっているものと考えられ、それが数時間に及んだことがあった旨証言している。右仙波証言もまた、前記情況証拠4に認定した精神科の受診経過のほか、被告人が各医師の面前で示したてんかんの臨床症状等に照らし、十分首肯することができる。

(2)  そこで、進んで、本件各犯行当時の精神状態について検討する。

被告人の犯行当時の精神状態に関する仙波医師、市川医師、風祭鑑定人の見解は、前記四の1ないし3のとおりであって、本件当時の精神障害の程度の評価には、これら精神医学の専門家においても、殊に仙波医師と風祭鑑定人との間に、かなり開きがあるかに見える。

しかしながら、右風祭鑑定の評価を決するに当たっては、風祭鑑定人自身、被告人が警戒的であったこともあって、本件各犯行当時の被告人の心理等に関する被告人からの事情聴取が大変不十分であったと述懐しており、それもあってか、前記被告人の異常心理供述につき同鑑定人はかなり懐疑的であるという点を見落とすことができず、仙波証言と風祭鑑定との結論の差は、被告人の異常心理供述を真摯なものと見るか否かの差異によるところが大きいと思われるところ、右異常心理供述の信用性の否定しがたいことは、前述のとおりである。

加えて、風祭鑑定人が本件各犯行の全期間にわたるてんかん性意識障害の存在を否定する根拠として挙げる二点(前記四3中の①②の二点)について見ても、まず①の点については、もうろう状態の継続時間に関しては医学上の見解が分れるところ、仙波医師の見解にも十分な根拠が認められる上、仮にこれが通常は短時間のものであるとしても、発作が重積する場合にはもうろう状態が相当の長時間に及ぶことは風祭鑑定人も是認するところであるから、この点も本件各犯行当時被告人が一連の持続するもうろう状態にあったことを否定する十分な根拠にはなりえない上、②の点についても、前記二の2(2)に指摘したところに、前記四の1仙波医師の証言を考え合わせると、被告人が犯行の大要を想起しうるものと見ることには基本的な疑問があり、むしろ、被告人は、本件犯行直後の時点からすでに、部分的で不完全な記憶しか有していなかったと見るのが相当というべきである。

さらに、被告人の本件犯行時の行動を見ても、前記二の2(2)に指摘したところに、前記四の1の仙波医師の証言を考え合わせると、各窃盗時及びその前後の行動は、甚だしく無防備かつ衝動的であって、意識挟窄等の意識障害の存在を窺わせるものであり、前示記憶の部分性・不完全性と相まって、仙波医師の言うてんかん性もうろう状態の存在を強く推認させるものというべきである。

なお、本件においては、前記二の1の客観的事実関係において認定したとおり、①被告人は、本件各万引きの続行中、判示百貨店の五階から六階に移動し、一応外見的には合理的で特に異常を看取させないような行動をとっていること、②被告人は、百貨店の保安係員から声をかけられ紙袋の中の在中物を改められるや直ちに同係員に謝罪していることなどの事実があり、本件各犯行当時被告人がもうろう状態にあった旨の仙波証言等に矛盾するようにも見えるが、この点は、仙波証言・風祭鑑定ともに、もうろう状態、殊に分別もうろう状態の下においては、外見上は本件のような行動の外形をとりうる可能性がある上、もうろう状態は何らかの外界からの刺激によって急速に解消し意識が清明の状態に回復しうるのであって、そのような回復時に、同種万引きの犯罪歴を有する被告人が「またやってしまった」ということで発見者に対し直ちに謝罪することもありうる旨指摘していることに照らすと、前記①②の事実は、本件各犯行当時被告人がもうろう状態下にあったことと格別相容れないものではないと解される。

3  以上のとおりであって、「当裁判所は、被告人の異常心理供述等を基礎とし、前掲の各医師の見解、殊に仙波証言を参酌して考察した結果、本件各犯行当時、被告人がてんかん性もうろう状態のもとで意識挟窄等の意識障害を来していたことが証拠上否定し難く、被告人が右てんかん性もうろう状態にあったため、その影響により是非弁識能力又は行動統御能力の著しく減退した状態、すなわち心神耗弱の状態にあったとの合理的な疑いを否定することができないものと認定・判断するに到った次第である。」

(累犯前科)

被告人は、(1)昭和六一年三月三一日新宿簡易裁判所で窃盗罪により懲役一年(四年間執行猶予・保護観察付、昭和六三年一月一八日右執行猶予取消)に処せられ、後記(2)の刑の執行に引き続いてその刑の執行を受け、平成元年八月二日この刑の執行を受け終わり、(2)右(1)の刑の執行猶予期間中に犯した同罪により昭和六二年一二月二三日同簡易裁判所で懲役八月に処せられ、昭和六三年八月二日右刑の執行を受け終わったものであって、右の各事実は検察事務官作成の前科調書及び右各前科の調書判決謄本によってこれを認める。

(法令の適用)

被告人の判示所為は包括して刑法二三五条に該当するところ、前記の各前科があるので同法五六条一項、五七条により再犯の加重をし、右は心神耗弱者の行為であるから同法三九条二項、六八条三号により法律上の減軽をした刑期の範囲内で被告人を懲役六月に処し、訴訟費用は、刑事訴訟法一八一条一項但書を適用して被告人に負担させないこととする。

(量刑の理由)

本件は、被告人が、百貨店においてブラウス等六点を相次いで万引きしたという事案であって、前記累犯前科二犯を含め、被告人は過去数回にわたり万引きで検挙され、うち四回も有罪判決を受けていることなどに照らすと、被告人の窃盗の犯罪傾向には軽視できないものがあるが、他面、前述の如く、被告人は本件各犯行当時心神耗弱の状態にあったこと、被害品は直ちに回復され実害が生じていないこと、被告人は現在もてんかんの治療継続中であり、本件についても、反省の情を示した上、今後ともてんかんの治療に努めていく旨誓っており、適切な医療措置を講ずることで改善が期待できること、被告人の夫において今後十分な指導監督をする旨約束していること、などの被告人に対し酌むべき事情も存するのでこれらの諸事情を総合考慮の上、主文の刑を量定することとした次第である(求刑懲役一〇月)。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官岡部信也 裁判官杉田宗久 裁判官園田雅敏)

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